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今日、12月23日火曜日、天皇誕生日の良き日に、元天井桟敷の女優であった高橋咲さんが主催された「白夜討論」を見てきた。
個人の住宅のリビングで限定20名で行われたものだが、とても楽しかった。
今日、12月23日火曜日、天皇誕生日の良き日に、元天井桟敷の女優であった高橋咲さんが主催された「白夜討論」を見てきた。
個人の住宅のリビングで限定20名で行われたものだが、とても楽しかった。

チラシについていた地図が案外わかりやすくて、実際はたいして迷いもせずに到着したのだが、最初は本当に住宅街の中にどんどん入っていくので不安だった。
結局いつも月蝕歌劇団の受け付けをされている男性が夜道にぼうっと立っていて案内をしてくれて良かった。
以下発言の要約はぼくによるもので、不正確な部分はゴメンナサイ。
「白夜討論」という名前は、1970年に、寺山修司が20代の新進気鋭だったころに行われたものを、44年の歳月を経て再開したものである。
出席は高取英さん(司会)、流山児祥さん、中森明夫さん、竹中茂生さんである。
「芸術と政治をめぐる対話」という表題は、ミヒャエル・エンデとヨーゼフ・ボイスの対談集から取られたものだが、今夜の対談も、芸術と政治に深い関わりがあって当時相互にパワーを与えていた1960年代〜70年代の話が多かった。
前半は昔の話が中心で、三島由紀夫さんの自害とその衝撃や、10.21国際反戦デーの時に演劇人はどこで何をしていたかなどの面白い話があった。
後半は今の状況についての話。
昔は集団のパワーがあったが、そのうち家族というものが必要以上に強調され、さらに家族も解体されて個がバラバラにされている、今の若い人はほとんどが一人っ子だから、集団というものに属さないで一生を終わる人もいるかもしれない、という話が印象的だった。
昔も今も個人個人はパワーを持っている、それは変わらないが、それが集団となって大きな動きになることがなくなったのではないか、ということのようだ。
昔の学生運動の話で「なぜ昔の女学生は男装してデモに行ったのか。あれはセーラー服のまま行ったほうが効果的だったんじゃないか。まあそれをやってるのが月蝕歌劇団なわけだけど」という発言があって笑った。
質問のときに「なぜ60、70年代はアートと政治が密接にからんでいて、いわゆるナウい若者は積極的に政治にコミットしていたのに、なぜ80年代、90年代のカルチャーでは、政治というものが無力化されてしまったのか」という意味のことを聞いた。
「60、70年代の若者は、自分たちのカルチャーで世界を変えるという妄想力があったけど、今はそれがなくなってしまった」
「昔はわからないことがあると一生懸命妄想したものだけど、今はすぐにググってしまう。ググると、そこに答えが書いてある」
ということだった。
「フランスなどでは、マスコミも、芸術家も、左右両方揃っていて、待っているとそのうち順番が来ると分かっているから、自分の番でない場合は雌伏している」という話も面白かった。
(要約が正確じゃなかったらスミマセン)
政治家だけじゃなくて、メディアも芸術家も両方いたほうがいいんだろうなあ。
でも「演劇はライブの空間が力を持っている。いまはアイドルもライブが中心で、そういう空間のデータ化できない部分が力を持っている」という発言もあった。
ぼくは一昨年ぐらいから発作的に演劇を見に行くようになって、今日もこういう対話に立ち会って、ライブ空間の楽しさと、集団が一つのテーマのもとで思い思いに動くことの面白さ、そして、見ている方も一度話を聞き始めたらその場に釘付けにされる空間だから得られるパワーを感じていたので、大いに共感した。
結局いつも月蝕歌劇団の受け付けをされている男性が夜道にぼうっと立っていて案内をしてくれて良かった。
以下発言の要約はぼくによるもので、不正確な部分はゴメンナサイ。
「白夜討論」という名前は、1970年に、寺山修司が20代の新進気鋭だったころに行われたものを、44年の歳月を経て再開したものである。
出席は高取英さん(司会)、流山児祥さん、中森明夫さん、竹中茂生さんである。
「芸術と政治をめぐる対話」という表題は、ミヒャエル・エンデとヨーゼフ・ボイスの対談集から取られたものだが、今夜の対談も、芸術と政治に深い関わりがあって当時相互にパワーを与えていた1960年代〜70年代の話が多かった。
前半は昔の話が中心で、三島由紀夫さんの自害とその衝撃や、10.21国際反戦デーの時に演劇人はどこで何をしていたかなどの面白い話があった。
後半は今の状況についての話。
昔は集団のパワーがあったが、そのうち家族というものが必要以上に強調され、さらに家族も解体されて個がバラバラにされている、今の若い人はほとんどが一人っ子だから、集団というものに属さないで一生を終わる人もいるかもしれない、という話が印象的だった。
昔も今も個人個人はパワーを持っている、それは変わらないが、それが集団となって大きな動きになることがなくなったのではないか、ということのようだ。
昔の学生運動の話で「なぜ昔の女学生は男装してデモに行ったのか。あれはセーラー服のまま行ったほうが効果的だったんじゃないか。まあそれをやってるのが月蝕歌劇団なわけだけど」という発言があって笑った。
質問のときに「なぜ60、70年代はアートと政治が密接にからんでいて、いわゆるナウい若者は積極的に政治にコミットしていたのに、なぜ80年代、90年代のカルチャーでは、政治というものが無力化されてしまったのか」という意味のことを聞いた。
「60、70年代の若者は、自分たちのカルチャーで世界を変えるという妄想力があったけど、今はそれがなくなってしまった」
「昔はわからないことがあると一生懸命妄想したものだけど、今はすぐにググってしまう。ググると、そこに答えが書いてある」
ということだった。
「フランスなどでは、マスコミも、芸術家も、左右両方揃っていて、待っているとそのうち順番が来ると分かっているから、自分の番でない場合は雌伏している」という話も面白かった。
(要約が正確じゃなかったらスミマセン)
政治家だけじゃなくて、メディアも芸術家も両方いたほうがいいんだろうなあ。
でも「演劇はライブの空間が力を持っている。いまはアイドルもライブが中心で、そういう空間のデータ化できない部分が力を持っている」という発言もあった。
ぼくは一昨年ぐらいから発作的に演劇を見に行くようになって、今日もこういう対話に立ち会って、ライブ空間の楽しさと、集団が一つのテーマのもとで思い思いに動くことの面白さ、そして、見ている方も一度話を聞き始めたらその場に釘付けにされる空間だから得られるパワーを感じていたので、大いに共感した。