Kindle角川文庫のセールをきっかけに手にした『麻雀放浪記』から始まった自分内の阿佐田哲也ブームが止まらず、長編『ドサ健ばくち地獄』を読んだ。
『麻雀放浪記』の敵役というか、強敵と書いてトモと読むというか、そういう存在だった「ドサ健」が主人公のスピンオフ長編である。

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いわゆるピカレスク小説で、主人公が徹底的な悪人である。

一般的にぼくたちは道徳的な常識人であり、いいことをしようと思って生きている。
少なくとも建前上はそうなっている。
絵空事である小説の世界はさらにもっとその上で、主人公はきれい事で生きているし、読者もそれを期待している。

たまに殺人事件の話があって、犯人が主人公であっても、何らかの復讐であるとか、事情があって殺さざるを得ない場合が多い。
悪を悪とも思わない人物が主人公の小説は数が少ない。

『麻雀放浪記』もピカレスク小説であるが、主人公「坊や哲」は(若き日の阿佐田哲也自身ということになっているが)根っからの悪人ではなく、自分の腕を磨き、試すために麻雀を打ち続ける。
一種の剣豪である。
弱い相手を探してカモるようなビジネス雀士を軽蔑していて、強い雀士を探して勝負を挑む。
この生き方は効率が悪い。
ぼくは割りと打算的なタイプなのか、極貧の生活にありながら勝負の美学にこだわる哲の生き方にだんだん納得がいかなくなった。
また、『放浪記』は終戦直後という時代色が味わいになっていて、底辺を生きる人々の戦いを見ても「昔は喰うか喰われるかだったからそんなこともあったんだろうなー」という、ノスタルジーというか、別の世界のロマンとして受け止めていた。

『ドサ健ばくち地獄』は戦後だいぶ経った、昭和31年が舞台になっている。
『放浪記』の映画版は白黒だったが、『ばくち地獄』は例えて言えば昔の日活映画のようなどぎついカラー作品である。
戦後の焼け跡もすっかり復興し、小説には小金持ちがたくさん出てくる。
そして健はその金を狙う、根っからの悪漢だ。

普通『ドサ健ばくち地獄』というタイトルで、根っからの悪人が出てくる、文庫本で前後巻の小説をなかなか読まないだろう。
主人公に感情移入できないから、読み続ける気力が持たない気がする。
ぼくも『放浪記』にあそこまでハマらなかったら、手に取らなかったであろう。

しかし、これが、面白い。
背中にいやな汗をかくほど面白いのである。

『放浪記』の哲とは全然違う。
健は人間をだまし、血を吸い、コロすために生きている。

『犬神家の一族』のような、最初から殺す相手が決まっている、普通の市民が臨時の殺人者になって計画を練り上げる犯罪とは違う。
まず、被害者(カモ)を探すところから始まる。
健はカモをたくみにばくちの世界にはめ、さらにその知り合いの太いカモを集めさせてまとめて血を吸おうとする。
しかし血の匂いを嗅ぎつけて、ほどなく同業の博打打ちや、地元のヤクザが集まってくる。

実は健のようなプロも、頭良く立ち回っているように見えて、あまり効率の良い生き方ではない。
カモはそのうち逃げていく。
WIN-WINの人間関係ではないから、長くは続かないのだ。
それを承知で、いかに自分だけがいい思いをするか、そんなことが出来るのかということに小説の興味は収斂していく。

博打の種目だけでなく、賭場というものの成り立ち、持続する条件も詳しく解説されている。
プロの生態だけではなく、被害者たち―素人衆のクセモノっぷりも面白い。
逆転に次ぐ逆転で、最終的に悪漢の代表である健を心から応援している自分に気づく。

紙版は絶版だったそうで、電書様々、Kindleサマサマである。
黒鉄ヒロシの表紙も最高だ。
これ絶対に福本伸行のマンガ絵にして欲しくない。

ドサ健は短篇集『雀鬼くずれ』の一編「天国と地獄」にも出てくるが、こっちも超ハイテンションのきちがいっぷりが面白い。
途中で我に返ってちょっと相棒に金を渡すところなど、ゲラゲラ笑ってしまった。
まだまだマイ阿佐田ブームは続きそうだ。