むかし本の原稿を書いていて、編集者さんに「読点(、)と句点(。)をカンマ(,)とピリオド(.)に変えますので」と軽く言われた。
その時はぼくも血気盛んでジャックナイフのように尖っていたので、必要以上に噛み付いた。
Perlの解説原稿である。
Perlはご案内の通り、カンマ(,)もピリオド(.)も演算子である。
原稿は地の文の中にどんどんコードが書かれていたので、そのままの原稿で句読点だけ変えるとすごく見づらくなってしまうのだ。
今にして思えば、コードはタイプライターフォントにするとか、かぎかっこ(「」)に入れるとかの妥協案があったと思うが、当時はカンマとピリオドはコードの演算子、句読点は日本語のものを使うという考えが大変すばらしいものだと思っていたので、これは譲れないと思った。

Example of copyedited manuscript.jpg

というか、当時のぼくはどんなことでも譲れない、「沽券に関わる」と思っていたのである。
人生が後半に差し掛かって思うのだが、「コケンに関わる」とか思って生きていても、ロクなことはひとつもない。
しかし、ぼくも「しょせんテンとマルのこと」と思っていて、ガッと言い返せば軽くひっくり返ると思っていた。
ところが向こうもなかなか引っ込まず、けっきょく当時住んでいた自由が丘の喫茶店にオトナが2人やってきて、ぼくを縷々説得しようとした。
「うちの創業以来の伝統ですから」とまで言われた。
そんな大事になるとは思っていず、これはぼくの計算違いだった。

でも結局「ぼくはサラリーマンが本業で、本とか出なくても生活に支障はないので、じゃあこの話はご縁がなかったということで」と言ってみた。
嫌なやつ!
するとあっさり向こうが折れて、結局こっちの言うとおりになった。

こういう、自分が荒ぶった言動を取ったらオトナが引っ込んだみたいな話をすると、まるで「武勇伝」を語っているように思われないか心配だ。
現実はその逆であって、ぼくもそれなりにこの件では心を痛めたし、話し合いの後味も苦かった。
最初に話し合いがあれば、もうちょっと違う結論もあったかもしれない。
でもやっぱりテンマルが好きだなァ。

この話は面白い後日談があって、非常にタイトなスケジュールなのでこのまま印刷しますと言われた。
ぼくはどうしてもゲラチェックをさせてくださいといい(言わなければならないと思った)、経過は忘れたが、昼に会社までバイトの女の子がコピーを持ってきた。
中身を見て瞠目した。
コード(プログラム)の演算子が全部テンマルになっていたのである。
チェックして良かったな!
筒井康隆が「乱調文学辞典」の「ゲラ」の項目で「印刷ミスのあまりの多さにゲラゲラ笑うこと」と書いていたけど、それを地で行く話である。
まあ過ぎてしまえば面白い思い出だ。

とりあえず横書きの技術書をカンマピリオドで書くべきか、テンマルで書くべきか。
どっちの本もある。
いま、手元にあるオライリーの『プログラミングPerl』も、技術評論社の『プログラマのための文字コード技術入門』もテンマルなので、テンマルはそこそこ支持されているようだ。
この2冊がテンマルだったら、ぼくも自信を持ってテンマル推しで行こうと思う。

本はどう印刷されるべきか。
誰に決める権利があるのだろうか。
著者が生きていて、まさにいま編集者からオーダーされている場合、普通は著者校というフェーズがあって、これでいいですかと言われる。
ということは、著者の意向はそれなりに尊重されているはずだ。
まあ著者と編集者は共同作業をやっているわけで、ぼくなんか知らないことがいっぱいあるから、お互い知恵を持ち寄って実り多い話し合いをすれば良い。
creative conflictだ。

問題は古典で、著作者が死んだ場合である。
「古池や蛙飛び込む水の音」という芭蕉の句があって、あれは一匹の蛙が静寂を破ってポチョッと飛び込んだのかと思っていたが、最近の研究では大量の蛙がポチョッポチョッポチョッ・・・と次々に飛び込んでいるという説もある。
で、丸谷才一の『輝く日の宮』によると、現代は、文学は受容理論と言って、読者に解釈の自由があるから、どう取ろうが勝手だ、ということになっているらしい。

でも、読者の考えを支配するのは、本がどのように作られているかがすごく大きい。
子供向けの俳句の本であれば、挿絵付きでその句が書かれることもあるだろう。
読者たる子供はそれを見て、鑑賞にどうしようもなく多大な影響を受ける。

紫式部が『源氏物語』を表した時は、印刷の技術がなかったから、とうぜん紫式部が自分で書いた紙束を貴族に回し読みさせたと思われる。
貴族の女房が直筆で書いた、言ってみればそうとうエロい本の真筆を、貴族が争って回し読みしていたわけで、これは現代のアイドルビデオチャットなどとはまた趣が違う激萌えシチュエーションである。
話がそれたが、ということは、どういう紙にどういうレイアウトでどういう字で書くかは、作者たる紫式部が完全にコントロールしていたことになる。

しかし後年源氏物語は、各時代の能書家によって大量に写本されることになった。
書き写す人の筆跡が源氏物語の字になったので、これも今思うとすごい話だ。
クラシックの音楽に似ている。
カラヤン指揮のベートーベンがいいとか、いや私はバーンスタインが、とか、最近はピリオド奏法が流行りだ、みたいな話で、誰が書き写した源氏が一番感じが出る、という読み方もあっただろう。

でも活字の世の中になって、どの文庫から出ている本も中身は一緒だ、という認識をなんとなく我々は持っている。
ところが、これが結構違うらしい。

これはまた違う話だが、外国文学は訳者によって全然違う。
オースティンの『Pride and Prejudice』がすごく好きなのだが、岩波文庫版の「高慢と偏見」よりも新潮文庫版の「自負と偏見」の方がだんぜん読みやすい。
でも、日本文学の古典についても編集や組版による違いが結構あるらしい。

サリンジャーは新潮文庫の野崎孝訳でハマったが、当時から思っていたが相当江戸前の、訛りがキツい訳である。
「チキショウメ」などという言葉が出てくる。
「チキショウメ」って原文でなんて言ってるんだろうね。
でも、「コロンボの声は小池朝雄に限る」みたいなもので、いっかい野崎弁で慣れてしまうとそれが快適になってしまう。

話はそれるが、野崎孝訳の『ナイン・ストーリーズ』で、子供が「ユダ公」というヘイト・スピーチを受け「ユダコとは空に上げる凧のことか」と言い返す場面がある。
英語のダジャレを日本語に訳しているわけで、これは大変な作業である。
ダジャレの翻訳というと小田島雄志のシェイクスピアが有名で「皇太子だろうが明太子だろうが」などというセリフが出てくる。
あれは大変な労力だと思うが、当然日本語の地口になっているわけで、翻訳はシェイクスピアのコントロールを離れており、合っているのはダジャレの出現箇所だけだ。
面白い文化である。

日本文学に戻るが、内田百閒は、後年に福武書店から出たリミックス版は新字・新かなづかいで、これが感じが出ない。
高校時代に、いじめから逃れて学校の図書館に篭って読んでいた、旺文社文庫(学校図書館用の表紙が分厚いタイプ)の旧字・旧かなづかひが忘れられないのである。
百鬼園先生は旧字・旧仮名にこだわっていたから、それを変えるのは冒涜だと、福武版が出た時にぼくはすごく憤慨していた。

現代では京極夏彦さんが、InDesignを活用して字の選択、改行から、レイアウト、デザインまですべてコントロールしている。

小説家はレイアウトまで責任を持て! - 京極夏彦が語るヒットの神髄 | マイナビニュース

長大で難しい漢字がいっぱい出てくる小説だから、編集者は手間が省けて助かるだろう。
ただしこれは、かつてワープロ上に自分好みのソフトウェアを構築し、アートディレクターの素養もある京極さんだから出来る話である。

また、著者がどう書かれるか絶対にコントロールすべきかというと、そうとも言えないだろう。
もし源氏物語が、紫式部の真筆のまま、墨筆で、くずし字で、句読点も漢字もなく書かれていたら、ぼくは読めない。
日本人の大多数が読めないのではないだろうか。
それは日本人の文化度の劣化という気もするが、やはり適切に漢字と句読点を入れて、活版印刷されてようやく読めるわけで、それを読んで初めて紫式部が描きたかった真情に我々も近づくことが出来る。
ということは、時代によって、原著者の考えを覆してでも分かりやすい本造りをすることが、鑑賞のためには必要な局面もあるということだろう。

今は電書や、安価なリミックス版の文芸書がいっぱい出ていて、昔では考えられない版面で小説を読むことも多い。
むかし青空文庫を知った頃に、パソコンで漱石の「こころ」を読み返していた。
すると親がぶっ倒れたという電話があって、急遽田舎に帰らなければならなくなった。
(この時は親は無事で、すぐに起き上がった。)
ぼくは自分宛てに青空文庫版の「こころ」をメールして、当時使っていた二つ折りのガラケーで読みながら帰郷した。
「こころ」には後半、主人公が親の葬式を放り出して、「先生」の遺書を読みながら田舎から東京に帰る場面がある。
ぼくと逆のシチュエーションだ、不思議だなあなどと思いながら、携帯で「こころ」を読み続けた。
これが、スラスラ読める。
こんな読まれ方をするなんて、漱石は想像もしていなかったのではないか。
今も「こころ」を読み返すと、空港でガラケーを握りしめていたときのことを思い出す。
これは、コンテンツにパワーがあるから、どんな画面でも魂を引きずり回されるような力があるということだろうと思う。

最近気になるのが角川文庫の表紙である。
寺山修司の本は林静一のイラストで大変感じが出ていたが、最近はタレントの写真になっている。
雰囲気ぶち壊しだ。
これには高取英氏も怒っていた。

さいきんぼくがハマっている「麻雀放浪記」も、Kindle版は黒鉄ヒロシ氏のブラックなイラストの装画で感じが出ているが、紙の角川文庫版の表紙はなんと『カイジ』の福本伸行氏が描いているのである。
『カイジ』はすぐれたマンガで、麻雀放浪記の後を継ぐピカレスクロマンだと思うが、麻雀放浪記は全然違うと思うのである。
麻雀と言えば福本マンガ、というのはあまりにも安易である。
坊や哲もドサ健もアゴが尖っている。
これもまた冒涜的だ。

夢野久作の作品は俳優の米倉斉加年氏が装画していて、これが相当エロチックで、ファナティックで、好みだった。
これがなぜか、「少女地獄」の新版ではカスリの着物のような妙に古めかしい装丁になっている。
タレントの写真や、福本マンガにするのは、まだショーバイの都合という理由が分かるが、こっちは全然分からない。
何らかの権利関係のトラブルか、少女ポルノへの風当たり的な問題だろうか。

角川書店は電書にも積極的で好きな会社だが、最近の文庫の改装ラッシュは絶対に納得出来ない。
明らかにすぐれたものを、劣ったものに置き換えている。
パチンコ屋と一緒で、新装しないと客が減るのだろうか。
でも同じ本を何回も買う客はいないと思うのである。
これは解せない。

まとまりのない話になったが、
 ・文章がどう書かれるかと、どう印刷、製本されるかは密接な関係がある
 ・著者がコントロール出来る場合もあるが、出来ない場合もある
 ・した方が良い場合もあるが、そうでもない場合もある
 ・昔の本がリニューアルされて読み継がれるのを助けている場合もある
 ・でもぶち壊しになっている場合もある
という考えを持っている。
どうあるべきなのか、自分がその文化にどのようにコミットしていくべきかは、考え中だ。