第2次世界大戦の影響、爪痕というのは、大体いつぐらいまで残っていたのだろう。
それは「戦争」という言葉が、一般名詞の戦争ではなく、固有名詞としての第2次世界大戦のことを指していた時期が、1つの目安になるのではないか。
ぼくはどっぷり戦後生まれで、特に何の苦労もせずに育ってきた世代だが、小さい頃は親が「戦争」というと、それは「あの戦争」のことであった。
いま日本で「地震」というと2011年の東日本大震災のことを言うのと一緒である。
これは面白い現象で、たとえば今でも「原爆」というと広島、長崎に起きたあの原子爆弾のことを言う。
あまり現在も配備されているミサイルに搭載されているのを原爆とは言わず、「核兵器」とか「核」などと言うと思う。

Osaka station disastrous scene of after Great Osaka Air Raid
ぼくの父は、父方の祖父が従軍画家であった関係で、戦争当時は満州で育った。
いっぽう母は、兵庫県の尼崎市で、がっつり空襲に遭った。

当時の日本本土は、大空爆に遭っていた。
今のイスラエルのガザ地区のような作戦が、日本全国の主要都市にバンバン展開されていたのである。

母は、ぼくが中学の頃、普通の病気で亡くなった。
生前の母は、キョーレツな個性の持ち主で、明るく、華やかな人だった。
だから、あまり戦争の悲惨な話と共に思い出すことはないが、今思うと、体のあちこちに消えない火傷の跡があった。
ぼくは子供だからあまり気にならず、幼児の頃は甘えながら、胸や脚のボコボコした火傷の跡を触ったりしていた。
母も意に介していなかったようだが、娘時代はとうぜん、相当な悩みであっただろう。

戦争時代の話は、母の口からあまり聞かなかったような気がする。
一度聞いたことがあるのが、こういう話だ。
空襲警報が鳴って、あわてて近所の人と防空壕に入った。
近所の人が「子供はもっと奥に入れ」と言ってくれたが、母は読みかけの本の続きが気になったので、入り口の近くに立って、戸の隙間から入ってくる薄明かりで本を読みつづけていた。
すると爆弾が防空壕の中央を直撃し、奥に入っていた人は全員亡くなった。
端っこにいた母は、辛くも助かった、というのである。
すごい話だ。
そんな状況まで疎開せずに耐えていたんだろうか。
まあ疎開は疎開で地獄だったそうだから、いろいろ事情があったんだろう。
ぼくは少女時代の母が本を読んでいてくれて、本当に良かったと思うし、いつも歩きながら本を読んでいた少年時代のぼくと、やはりちょっと似ているところがあったんだなあと思った。

それから月日が経って、ぼくが小学5年生のとき、斉藤先生という女性が担任だった。
大変人気のある先生で、みんなに好かれていて、母もゾッコンだった。
そんな5年のある日、夏休みの登校日に「平和授業」があった。

ぼくの学校の場合は、「平和授業」というのは、戦争の話や、原爆の話を、先生がする、というものだ。
戦中派の先生も多かったから、いろいろな話を聞いた。
ところが、小学5年のときは、斉藤先生がうちの母から聞いた話をした。
母が尼崎の大空襲に遭ったときの話を斉藤先生にして、斉藤先生がそれを改めて5年4組の生徒に話すという内容の授業だったのだ。
こういう授業はぼくはこの1年しか記憶していない。
どういう経緯でこういう授業をすることになったのか、覚えていない。

意外だったのが、ぼくがこの話を聞いていなかったということだ。
あまりにも恐ろしい話だったので、子供のぼくがショックを受けると思ったのだろうか。
それとも、自分の口から話す気にならなかったのだろうか。
しかし母は、斉藤先生にはこの話をしても良い、そして斉藤先生の口から、ぼくを含む4組の生徒に話してもらいたい、と思ったということだろう。
これが本当に意外だった。

話の内容は、あまり覚えていないのだが、こんな感じだった。
その日は、とにかく普通でない量の爆弾、焼夷弾が、尼崎の町に降り注いだ。
それで、祖父も、祖母も、母を防空壕に入れることが出来ず、燃え上がる町の中を母を抱えて逃げ回った。
(もっとも、防空壕に入りおおせていても助かったかどうかは、母が本を読んでいた日のようなことがあるから、分からない。)

それで、目についた学校に入った。
ところが学校もバンバン攻撃されていたのだ。
祖父と、祖母は、保健室を探し当てた。
そして母をベッドに寝かせ、その上から何枚も、何枚も布団を掛けて、その上から二人で覆いかぶさって娘を守ったそうだ。
爆風が、窓から入ってくる。
布団が、熱風で持ち上がって、祖父と祖母の体は浮き上がって、天井にまで達したそうだ。
それでも必死で、二人の親は娘を守ったという。
結局運が良くて、母も、祖父も、祖母も助かったが、とりあえず人生で一番恐ろしい体験だっただろう。

斉藤先生の話し方は、子供をことさらに脅かすわけでも、偉ぶった言い方でもなくて、淡々としていた。
「深澤さんのお母さんは防空壕に入れなかったそうです」とか「おじいさんとおばあさんは布団の上から覆いかぶさって娘さんを守られたそうです」とか言う風に、聞いた通りを淡々と話すだけだった。
(そういえば主義として男の子も「さん付け」で呼ぶ先生だった。)
そういう、子供を対等に見るところが人気の理由だったのだが、特にこの話は印象に残っている。
子供の頃の記憶は、もうほとんど失われてしまって、真っ黒な板塀のようにのっぺりした時間の長さだけが認識されている。
しかし、この「平和授業」のときのことは、その黒板塀に一箇所ざっくりえぐった穴が開いていて、生々しい木が露出しているような、鮮烈な記憶として残っている。
ぼくは、小学校5年の夏休みに、斉藤先生から母の戦争の恐ろしい話を聞いた、そのことを、5年4組の友達が、みなしんとして、放心状態で聞き入っていた様子や、女子がこらえきれずに何人かしゃくりあげていたこと、それを誰も笑わなかったことも含めて、今もありありと覚えているのである。