いま話題のトピックと言えば都議会セクハラやじであるが、これが最初にツイッターでパーッと広まった時、どうしようもなく「セクハラおやじ」と読み間違ってしまっていた。
まあセクハラ親父が言ったことであるからあながち間違いとも言い切れないが、セクハラ野次、と漢字で書けば問題は少なかったと思う。
朝日新聞では「都議会ヤジ問題」とカタカナ表記にしているようだが、セクハラヤジだと全部カタカナになって、やはりセクハラオヤジに見える。
もともと日本語には文字がなかった。
昔の文書は「出前迅速、落書無用」的な擬似漢文で書かれていたが(?)、奈良時代ぐらいから「足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿」(あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む)のような万葉仮名で、漢字を援用して日本語の音を移すようになった。
このような日本語の音を移すための漢字である万葉仮名はやがて簡略化され、平仮名となった。
一つの音を表す万葉仮名が沢山あったので、それが簡略化した平仮名も、一つの音に対してたくさんあった。
そのうち平仮名が整理され、一つの音を一つの字で表すようになり、使わなくなった平仮名を変体仮名と呼ぶことになった。
変態仮名ではない。



これは田園調布にある「きもの さとう」の看板であるが、「さ」と「と」の字が変体仮名である。

さて、平仮名は平安時代に女手(おんなで)と言われ、女性が文章を書くときはもっぱら平仮名で書かれていた。
っ、ゃ、ゅ、ょのような小書き仮名も、句読点もなかったから、源氏物語の冒頭の「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける」は「いづれのおほんときにかにようごこういあまたさぶらひたまひける」と書いていたことになる。
これはこれで読みづらい。
その上、墨筆で、崩し字で書かれていたのだから、ぼくとかには解読不可能である。
それを平安貴族は争って読んでいたというから、昔の人はずいぶん読解力が高かったと思われる。

平仮名やカタカナのことを仮名と言うのに対して、漢字のことを真名(まな)と言っていた。
紫式部が清少納言のことを「真名書き散らして侍るほども、よく見ればまだいと足らぬこと多かり」(漢字を書き散らしてますが、よく見るとまだまだ不十分なところも多いのです)とディスっていたのが有名だ。

しかし、漢字仮名交じりの方が明らかに読みやすい。
日本語には切れ目がないので名詞や動詞のような実体のある言葉は漢字、てにをはのような機能語は平仮名にした方が、見た目的に切れ目が分かって読みやすいのである。
句読点もあったほうが読みやすい。

しかし漢字は漢字で難しい字は難しいので、漢字の数を制限しよう、いっそ廃止して仮名書きに統一しようという動きは昔からあった。
漢字の制限が大々的に行われたのは太平洋戦争に負けてアメリカのGHQの指導のもとに当用漢字が定められた時である。

アメリカの占領軍は、日本が軍国主義に走ったのは、戦前の新聞では難しい漢字が多用されていて、庶民は政治や思想などの情報に触れることが出来ず、インテリや権力者がそれらの情報を独占していたためだと考えた。
ためしに占領軍の将校がジープで農村に行って、地元の農民に「これを読んでみろ」と新聞を突き出すと、一字も読むことが出来なかったそうである。
農民にしてみれば、田んぼでぼうっと立っていたらジープに乗ってオニみたいな屈強な外人が車に乗ってやってきて、いきなり新聞を突き出してきたら狼狽してしまった読めるものも読めなくなってしまうのではないかと思うのだが、そういうことが論拠で大幅な漢字の改革が実際に行われた。

当用漢字の影響はいろいろあるが、そのうちの一つに交ぜ書きの悪影響がある。
よく「不祥事の隠ぺい」、「書類の改ざん」、「ら致問題」のように隠蔽、拉致、改竄という言葉を部分的に書き換えている表記が以前見られた。

これが読みにくい。
とくに「ら致」が凶悪で、「北朝鮮によるら致問題」などと書かれると、どこまでが一つの言葉か分からなくなってしまうのである。

だいたい、漢字が使えなくなったから、熟語の中でも名詞の中でも一部だけ平仮名書きにすればいいというのは思いやりのない話である。
隠蔽、拉致、改竄、いずれも結構難しい言葉である。
難しい言葉を使うことには躊躇しないが、難しい字は決まりで支えないので、じゃあ漢字だけ平仮名に変えればいいやというのは安直である。
難しい漢字を使わなくてもいい言葉を考えればいいのである。

用字制限は読みにくいだけでなく、書きにくいという問題もあった。
欧米はタイプライターで簡単に美しい字が誰でも出力できるが、日本人は出来ない。
だから仮名書きにしようとか、ローマ字にしようという意見があった。
これは昔であれば一定の説得力があったが、今はワープロ/パソコンの仮名漢字変換が普通に使われるので、難しい漢字であってもどんどん書ける。

「隠ぺい」、「ら致」、「改ざん」はさすがにひどいということで、今の新聞は「隠蔽」、「拉致」、「改竄」と普通に書くことになっている。

ただ、通達が行き渡っていないようで、「隠ぺい」などで検索すると、地方紙などにその表記が残っている場合がある。
パソコンやワープロでも交ぜ書きが出てくるのである。
いま、手元のパソコンで「いんぺい」と打って変換すると、「隠蔽」よりも先に「隠ぺい」が出てくる。
難しい漢字を簡単に書き分けられるのが値打ちであるべき仮名漢字変換が、世間におもねってわざわざ醜い交ぜ書きを出力し、新聞がそれを使うのを止めたのに、いまだに直っていないのは困ったことである。
これだと交ぜ書きを根絶するのは難しいだろう。

いまの新聞にも、なぜ漢字で書かないのか不思議な言葉も多い。
鬱のことを「うつ」と書くのが不思議である。
「難しいうつの対策」などと書かれると、鬱という言葉が平仮名に埋没するので読みづらい気がする。

最近では「百田尚樹氏がバヌアツをやゆした」というのがあって、やゆが揶揄と分かるのに大変時間が掛かった。
これ、わざわざ揶揄なんていう難しい言葉を使う必要があるのだろうか。
普通に「馬鹿にした」とか「侮辱した」でいいのではないだろうか。
それだとストレート過ぎるから、百田氏に配慮してわかりにくくしているのだろうか。
であれば、戦後GHQが主張した「日本の新聞は大衆に情報を渡さないためにわざと分かりにくい表記をしている」というのも、あながち間違いではなく、戦後民主主義になった現在も、営々と行われているということになる。