こういうことを書くのはバカだと思うが、ぼくはバカだから書いてしまうが(<=これは筒井康隆氏のフレーズであっただろうか)、ぼくは社会民主主義的な思想を持っている。
とりあえずライトウィンガーズではない。

Speakers Corner London - a speaker
Twitterをしていると面白いのが、自分にとって心地よい言葉を言う人を「この人はいいこと言うなァ」と思ってフォローし、そうでない人をリムーブしていると、だんだんタイムラインの世論が似てくることである。
自分では正しいこと、的を射たことを言っている人をフォローしているつもりなのだが、知らず知らずに自分と同じ意見の人、自分の意見を追認してくれる人をフォローしているのだ。

たとえば、以前の都知事選で石原氏が最後に立候補したとき、ぼくのタイムラインでは圧倒的に石原惨敗が予想されていた。
てっきり「石原さんは惨敗するのかー」「時代も変わっていくなー」と思っていたのだ。
ところが、いざフタを開けてみると圧勝だ。
さすがにタイムラインにいる人も変に思ったらしく「俺のTLでは惨敗しているのだが」、「どこの誰が支持しているのか」という発言が続出した。
まあ、自分の意見が社会の中心だと思う(そしてそれは当たっていない)ことは、いつでもどこでもあっただろうけど、Twitterほどこれが可視化されると笑えてくる。

ぼくは、自分の文章が面白いので暇さえあれば何度も読み返す。
別にナルシスト的なことを書いているわけではなく、これは誰についても当てはまることだと思う。
書きなれないうちは自分の意見をうまく表現できないことがあるかもしれないが、ある程度書き溜めていると、自分が書いた昔の文章が面白くなってくる。
むかし書いたことは自分でも忘れているから、読み返すと面白いし、なにしろ自分が興味あることしか書いていない。
そして自分が共感できることしか書いていないのである。

しかし、ブログを書き始めて385回にもなると(ブログ自体はもっと以前から書いているが)、自分の考えにある傾向というか、偏りが見えてくる。
ぼくはとりあえず
 ・文明を重視し、迷信を排そうとしている
 ・自由を重視し、強制を排そうとしている
 ・ITを享受し、ITによって「人間の暖かみがなくなる」という言説を排そうとしている
という傾向が強くある。

一個一個の記事を、書いている瞬間しゅんかんには、その意見が中立的で公正で斬新であるとせいぜい思って書いているところではあるのだが(だからこそ世界に発信する意味もあろうと思っているのだが)、ある程度まとめて読み返してみると、「偏っているなー」、「ちょっと強引な意見だな」と思わないでもない。

方向性自体は、自分の考えはもっともだと思う。
まだまだこの世界は、迷信が支配し、知性が軽視されていて、根拠が分からない強制力が幅を利かせていて、新技術に対する通俗的な批判が多いと思っている。
がんばってそういう傾向を排し、社会を良くしたいという所存である。

また、人間たるものすべからく偏りなく、中立的であるべきとも思わない。
偏りがあるから、人間は動いて行くのだとも思う。

しかし、たまに振り返ってみると、「これは誰の目にも正しいと思って書いてはいるが、よく考えると、俺がそういう考えの人間だから書いているな」、「この記事は無意識ではあるがポジショントークだな」とも思う。

ITについてが特に顕著であって、ぼくはまあまあ世間の平均よりはパソコンとか詳しい方だから、パソコンが栄えればいいと思うし、いやらしい話だが、「パソコンが詳しい人がもっともっと重用される世の中になればいい」と思っている。
それは、「パソコンが栄える世界は明るくて、無駄がなくて、弱い人でも大きな仕事が出来て、二度手間がなくて、知識や経験や面白いトピックがどんどん蓄積/共有される素晴らしい世界だから、みんなその良さを享受して欲しい」と心から思っていることも事実だ。
しかしもう一方で、「自分が知っていることが重要な知識になれば、自分の価値が社会の中で相対的に上がるからうれしい。都合がいい」という考えも、どうしようもなくあるのである。
これは、当然だ。
「そのプログラミング言語がいいか」とか「iPhoneがいいかAndroidがいいか」の宗教論争もそうだ。
人間だれしも自分の過去の決定を後悔したくないのである。

会社にいると、誰しも自分の部門、役職を重要視して、それを中心にビジネスを捉える。
自分のポジションが好きでないと仕事も踏ん張りがきかないがそれだけじゃダメだという気がする。
(あと、さっきから同じことを視点を変えて何回も書いているような気もする。)

ある程度偏ることは、人間であるからしょうがないことだし、人間が生きる原動力だとも思う。
しかしながら、それに無自覚で、自分に都合がいいことを、普遍の真理であるかのように喧伝し、どうかすると自分でも盲信してしまうのは、避けたい。
自分の意見が逆に説得力がなくなってしまうのである。

あと、仮にパソコンが禁じられる社会になっても、別にぼくは平気だと思えるようにしておきたい。
たとえ毎日「パソコンサイコー!」と語っていても、本当に大切なのはパソコンなんかじゃなくて、それを語っている自分だと思えるようにしておきたい。