よく雑誌やブログで、若い人(に限らないが)の言葉の誤用をあげつらって記事にしているのがある。
あれは楽そうなので、ぼくもやってみよう。

最近「期待値」という言葉の誤用が気になる。
classmate
たとえば宝くじがあったとする。
1億枚売って、3億円が1本、3千万が10本、3百万が100本出るとする。
総当たり金額は9億円だから、1枚当たりの期待値は9円だ。
だから1枚100円で売ったとすると、買い手の期待値はマイナス91円になる。
宝くじを10枚買うと、だいたい910円の損になる。
という計算をするものだ。
つまり、期待値とは、賞金に当たる確率を掛けたもの、という意味である。

ところが、最近は「うちの会社も有名になって、品質に対するお客さんの期待値が上がって来てるんですよねー」みたいな言い方をする。
期待値は普通上がったり下がったりしない。
ていうか、これは単に「期待が大きくなっている」でいいところである。
わざわざキタイチという難しい言葉を、間違えて使う必要はない。

同様に「経験値」という言葉がある。
「彼もいろんなお客さんの相手をして、営業部員としての経験値が上がって来たので…」と言う。
こっちはウルティマとかドラゴンクエストのような、ロールプレイングゲームから来ている。
こういうゲームは旅をして怪物を倒しながら強くなって行って使命を果たす。
プレイヤーの能力は、体力、金、魔法と、もうひとつ経験値というものによって決まる。
これは、普通の生活をしていても、それこそ営業部員としていろんなお客さんの相手をしていると新しいお客さんの相手がうまくなるみたいなもんで、単純な能力で割り切れない能力が身に付くが、それではテレビゲーム上プレイヤーの能力を分かりやすく画面に出せないので、便宜上数値化して表示している、ということであろう。
ぼくはテレビゲームをしないので、この説明で合っているかどうか分からないが、この場合は日常会話への取り入れ方として「期待値」ほど間違ってはいないと思う。

でも、「営業部員として経験を積んでいるので」ではなぜいけないのであろうか。
なぜ現実をデフォルメした写像であるゲームにいったん変換して、再度現実に逆変換して言わないといけないのだろうか。
分かりやすくもないし、特にユーモラスという気もしない。

いや、変な言葉づかいぐらいしてもいいし、ぼくもしょっちゅう変なことばかり言っているのだが、この2つの言葉の場合は
・普通の言葉をわざわざ分かり難く言い換えている
・しかも、言い換えた結果、かえって意味が適切でなくなっている
という意味で、「値(チ)」という文字をわざわざ付け加える意味が分からない。

要するに難しい言葉を使えば頭が良く見える、ということだろう。
それは現実に、どうしようもなくあることなので、ぼくもどうしようもなく難しい言葉をスパイスとして使ってしまいそうになる。
でもこの場合、かえって適切でなくなるのである。
つまり、普通に言った方が本当の意味で頭がいいのである。

これは昔、呉智英が「すべからく」と言う言葉を「すべて」と同じ意味だと誤解していて、しかも「すべて」と言えばいいところでわざわざすべからくと誤用する人を論難していたのと同じ原理である。



カタカナ語も気になる。
「今日はだれだれのトークをフューチャーして」と言うのはどうかならないだろうか。
正しくはフィーチャーだが、フューチャーと間違って覚えている人(矢口真理さんとか)に限ってこの言葉を鬼のように多用するのである。

あと、「企図」、「方針」という意味で「スキーム」と言う人がいるが、schemeという言葉にはそういう意味が確かにあるが、デーブ・スペクターによると、英米人にとっては「策略」、「たくらみ」というニューアンスが強いので、英語で話すときはそう言わない方がいい、と言っていたが、正しくはなんと言うのだろうか。

このへんになるとデイヴィッド・セインの「その英語ネイティヴにはカチンと来ます」の世界である。



この本、前から気になっていてまだ読んでいないのだが、「英語を母語にしている人」という意味で「ネイティブ」と言ってしまっているが、これはいいのだろうか。
ぼくはずっと前に「ネイティヴ(ズ)」というのはいわゆる「原住民」という意味で、英語を母語にする人という意味ならちゃんとnative speakerと言わないと失礼だ、と聞いたような気がする。
モヤモヤした終わり方でスミマセン。

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