iPad miniを買ったのは電子書籍用途が主だ。
電書端末としてiPad miniはヤヴァイぐらい使いやすい。
軽く、広く、小さく、中身が詰まっている。
アスペクト比がいまどき3:4なのも良い。
細長いのは書物として使いにくい。
(映像としても、シネスコサイズがいいのは映画ほど巨大スクリーンになってはじめての話であって、テレビがワイドになる必要が分からない。)
そして、十分に広く、軽い。
 
よく片手で持ちにくいと言われるが、持ちにくいのはわしづかみにしているからだろう。
Appleのサイトでもわしづかみにした写真が載っているが、実際にはiPad miniをわしづかみにすることはない。
軽くて薄いので、端をひょいとつまめばいいのである。
実際にはたなごころと親指で挟んで支える形になる。
要は普通の本と一緒である。
そして普通のハードカバーの本より軽く、薄い。

さて、電書だが、Kindleで読む。
意外と誤解している人が多いのだが、KindleはAmazonから出ているハードウェア版(OSはAndroid)もあるが、Appleのiデバイス(iPhone、iPad、iPod touch)で稼働するソフトウェア版もある。
で、ソフトウェア版はiPad miniが使いやすい。

ぼくは紙の本はもうめったに買わない。
一冊の本を持ち歩いているときしか読めないというあの不便さに耐えられなくなったのだ。
どうせ紙の本を買っても断裁してスキャンすることになる。
だったら最初から電書がある本はそれを買った方がいい。

電車の中では、自分ではなかなか読めない、難しい本を読むといい。
逃げ場がないので、進む。
それも古典がいい。

Kindleで青空文庫が読める。
青空文庫は著作権が切れた日本文学をヴォランティアでまとめて、無料で開放しているものだ。

ちなみに「夏目漱石の文字づかいがおかしい」「どれを底本にしているかわからない」ということを批判的に扱ったブログがあったらしく、論争になっている。
昨年末に参加した「文字研究会」で、「写本の翻刻なんて、夏目漱石や宮沢賢治でもいろいろ問題になるのに・・・」という発言があったのは、これを踏まえてのことらしい。

「青空文庫」はアブナイ?(とぅぎゃったー)

昔の人の本は原稿でも文字づかいが揺れているだろうし、いまどきから考えたらおかしな文字づかいをある時から直したものがあるだろうし、そもそも新潮文庫などは昔の本は全部新かなづかいに直してしまっているので、ぼく個人としては上のような揺れが「もしあったとしても」実害を体感できない。
青空文庫があることのベネフィットの方が、リスクよりも大きいと思う。
まあ、本当に「危険」ならもっと権威のあるプロジェクトが立ち上がるであろう。
それは大変望ましい。

話がそれたが、青空文庫の古典は前からちょこちょこ読もうとしては挫折していた。
理由はいい端末がなかったからだ。
いまiPad miniを得て、Kindle版をダウンロードして読めるようになった。

ちなみにKindle版は「ゼロ円の電書をAmazonのサイトからダウンロード購入する」必要がある。
Kindleアプリケーションからは購入もダウンロードもできない。
ここがちょっと。

これで、年末からハマっているのが「源氏物語」だ。
「源氏物語」は、ぼくは丸谷才一氏の「輝く日の宮」や、マンガの「とめはねっ!」を愛読しているのにもかかわらず、読む気がしなかった。
平安貴族が女性をかどわかして回る話、ということで、あまり自分には関係ない世界のことかと思っていたのだ。

Kindle版では有名な「雲隠」の巻がどうなっているのかと興味が湧いてダウンロードしてみたら、本当にカラッポだったので笑った。
それで、たわむれに最初の「桐壺」から読んでみたら、ずっぽりハマってしまった。
昼過ぎに読み始めて、気づいたらすっかり夜になってしまったのだ。
こんなにのめりこむ本は珍しい。
数年前に「パルムの僧院」や「魔の山」を読んで以来である。

とりあえず話のすっ飛び方が面白い。
まず、光源氏の母である桐壺の女御の悲しい生涯、非業の死が語られ、光源氏の出生が描かれる。

2巻目の「帚木」では「そんな光源氏が17歳におなりになったとき、ある雨の夜に、男4人で、どんな女がイイ女か、楽しく議論することがあった」というのだから驚く。
書きたいことだけ書き過ぎだろう、紫式部!

このつながりの悪さはさすがに問題になっているらしく、この間にあるべきだが消失したとされている幻の巻が「輝く日の宮」だ。
しかし、実際に「桐壺」と「帚木」を続けて読んでみないと、このショック感、面白さは分からない。

昔の本を読んでいて気になるのが、そのカッタルさである。
夏目漱石の「吾輩は猫である」を、ぼくは世界で一番おもしろい本だと思っているが、読み返すたびにダルくなるのが猫が近所を徘徊するところの自然描写の長々しさである。

「源氏物語」はその辺がすごい。
割り切っている。
美しいものだけ、面白いことだけ立て続けに書いている。
急に家に怨霊が入ってきて女性を取り殺して行ったりするのである。
昔の本だからそんなこともあるだろうけど、今読むと本当に面白い。

こんな本リアルタイムで書いていたら大変な評判になっただろう。
平安貴族が先を争って読んだのが分かる。
しかも天皇付きの女房で、道長の愛人と言われた女がどんどん書いているのである。
当時はセンセーションを通り越してパニックになるほど流行ったのではないだろうか。

しかし墨書で、書写本しか存在しない。
紙じたいまだ貴重であった。
リアルタイムで読めたのは、いやそれ以降も読めたのは本当に限られた人に違いない。
それが今や家庭で無料で読める。
本屋に行く手間もないのである。

ただし与謝野晶子訳版であって、これが難がある。
原文から端折っているだけでなく、明治時代の言葉じたいぼくには難しい。
あと、和歌はなぜか訳がついていないので、これも難しい。
結局原文、逐語訳、与謝野訳が比較対照されたWebサイトがあったので、一巻ごとにそこをSafariで読み返すことにした。
iPad miniがLTE版で良かった。

年末年始には自分的に源氏ブームがパニックの域に達していて、一時は「宇治市源氏物語ミュージアム」に一人で行って写本を見てこようかと思った。
さすがに忙しくて思いとどまったが、近いうちに果たそうと思っている。

「青空文庫」にはほかに「半七捕物帳」が全巻ある。
「大菩薩峠」が全巻ある。
今年いっぱいはこれで大体持ちそうだ。

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