哲学を学びたいと思ってしばらく経つ。

一昨年あたりは例のサンデル教授のテレビが面白くて本を読みふけった。
これは本当に面白い。
いろいろ社会問題や、自分の問題を考える上で指針を与えてくれる。
その前に、竹田青嗣氏の『自分を知るための哲学入門』も面白かった。
サンデル教授の本と同じで、哲学の歴史、ビッグネームの哲学者の考えをまとめたものだが、やはりサンデル教授の本と同じで、それが今の自分(読者や竹田氏)にどのように結びついているかが縦糸として織り込まれているのが良かった。
竹田氏は在日韓国人であって、生きにくい人生をいろいろ生きる上で哲学とは何かを考えたそうだ。
全然違うかもしれないが、ぼくも旅先でトラブルになったり、病気になったり、知り合いを亡くしたりして、普通の生活が一時的にできなくなって、普段の自分を外から眺めるときに強く哲学的な考えに惹かれる。
「考えに救いを求める」のである。
上の本を読んで感銘を受けたので、竹田氏の専門分野への入門書である『現象学入門』を読んだ。
これが言っちゃあ何だけど全然歯が立たなくて、早々に投げ出してしまった。
ぼくも年を取っている。
こんな難しい本を読んでウンウン悩んでる時間はもうない、と思ったのだ。
『自分を知るための哲学入門』には、「哲学を学ぶには難しい本を苦しみながらたくさん読む必要がある。しかし、そんな時間はない」と言うことが書かれている。
あと、読書会をやるなら男女混ぜた方がいい、などと実践的なアドバイスも書いていて、『自分を知るための哲学入門』は非常に面白い。
自分の考えでは哲学とは、自然科学から物質や現象を取り除いたあとに得られる、「考え方のパターン」のようなものだと思う。
初歩の力学がすべての物体から大きさと形を捨象して「質量を持った点」として捉えるように、すべての現象や思考から対象を捨象したときに得られる、考え方そのもののようなもので、化学や物理よりももっと基本的な学問なはずだ。
それにしても、これから哲学を学ぶ人が、ビッグネームの哲学者が書いた「原典」をまず読まなければならないというのは要領が悪いと思う。
たとえば物理を学ぶ人が、昔の英語にウンウン悩みながらニュートンの「プリンキピア」を解読しなければならないということはない。
もっと洗練された現代の教科書をまず学ぶのである。
(まあ、日本の高校生のように微積を使わないで力学をわざわざ難解にして学ぶという変な例もあるが)
サンデルの本に「アリストテレスの自然科学は現代の科学者に顧みられることはもはやないが、アリストテレスの哲学は今の哲学者にとっても大きな問題である」と書いてあった。
その真意は詳しく研究していないが、アリストテレスが出した問題もまだ解けていない(合意を見ていない)のであれば、それから膨大に書かれた哲学書についてはさらに解釈が分かれているのであろう。
気が遠くなる。
まあ現在も生きておられる竹田氏の、初学者のための入門書である『現象学入門』でつまづいているのだから、「哲学は昔の人の難しい本をたくさん読まなければならないのが難点だ」とぼくが思うのは明らかにおかしい。
ただ、ここまで贅言を弄して何が言いたかったかと言うと、哲学には鉱脈がある--知りたいことを知るための道筋が含まれていると思うのだが、どの登山口が要領がいいのか分からないのである。
自分でいちからオリジナルの哲学を考えればいいんじゃないか、という気もする。
誰でもそうだと思うが、ぼくは小さいころからいろいろ頭の中で考えに耽っていた。
「あるある」でいうと、この世界で自我を持った存在は自分だけで、世界は全部自分をだますための装置、書き割りなのではないかという考えがある。
唯我論と言うそうだが、これ、絶対幼少期に一回は思うと思う。
あと、「信号の赤は、自分にはあの色に見えているけど、他の人が同じ色を指して赤い赤いと言っている、その色は自分の心に結ぶ像と同じなんだろうかね」と言うものである。
これもちゃんと名前が付いていると思うけど、浅学にして知らない。
こういう、物質や現象の向こうにある思考、メタ思考のようなことに強く魅了されるのである。
時間がつぶれるような気がするけど、ちゃんと積み重ねればもっと要領よくいろいろなことを把握できるんじゃないか。
たとえば「物質と現象の違い」が気になる。
昔のヨーロッパの考えで「世界は空気、火、水、土の四大元素で出来ている」というものがあるが、この中で「火」は現象であって、他のものとは根本的に異なる。
他の3つは重さや大きさを持っていて、容器に貯めることが出来る。
しかし火は物質が燃えるという現象であって、物質ではない。
我々は便宜上、オリンピックの聖火のような場合は、火を物質のように扱っている。
「台風」も現象(大規模な低気圧)であるが、アメリカでは人名を付けたりしている。
(昔は女性の名前を付けていたが、時代と共に男性の名前も付けることになった。そういえばアジアでも「ネズミ」とか「ゾウ」とか言うことにしたって言うけど全然流行ってないね。)
実際には、原発や原爆の中では物質がなくなってエネルギーに変わっている。
つまり、極微の世界では物質は現象と同じものであると言える。
人間や動物のような生物はどうだろうか。
肉体という物質が、生命と言う現象を得て生物が成り立っている。
つまり生物とは物質と現象の交わるところに得られるもの、であると言える。
こういうのは他に太陽とか、機械などがある。
死んだ人は人だろうか。
これは定義の問題、つまり、言葉遊びの領域だろう。
情報は物質だろうか、現象だろうか。
我々は「プログラムが入っている」「入っていない」「壊れている」などと言う。
しかし、実際にはビット(磁石や電気信号の励起状態)をコピーしているのであって、完全な現象である。
しかし、こういう問題をいろいろ考えていると思うのだが、言葉について考えることは世界について考えることだ、と思う。
普段何気なく使っている言葉を注目していると、多くのメタ思考が得られる。
こういうことを考えるだけでなく、文章に書きためて行こうと思う。
文章に書きためれば同じことを何度も考えなくてすむし、同じ文章の中で矛盾や飛躍があれば運が良ければ気づくので、真理に近づいていける気がする。
当然、とっくに先達によって考えられていたことばかりだろう。
ぼくが知らないだけである。
その場合は読者諸兄にご教示いただければ幸いである。



これは本当に面白い。
いろいろ社会問題や、自分の問題を考える上で指針を与えてくれる。
その前に、竹田青嗣氏の『自分を知るための哲学入門』も面白かった。
サンデル教授の本と同じで、哲学の歴史、ビッグネームの哲学者の考えをまとめたものだが、やはりサンデル教授の本と同じで、それが今の自分(読者や竹田氏)にどのように結びついているかが縦糸として織り込まれているのが良かった。
竹田氏は在日韓国人であって、生きにくい人生をいろいろ生きる上で哲学とは何かを考えたそうだ。
全然違うかもしれないが、ぼくも旅先でトラブルになったり、病気になったり、知り合いを亡くしたりして、普通の生活が一時的にできなくなって、普段の自分を外から眺めるときに強く哲学的な考えに惹かれる。
「考えに救いを求める」のである。
上の本を読んで感銘を受けたので、竹田氏の専門分野への入門書である『現象学入門』を読んだ。
これが言っちゃあ何だけど全然歯が立たなくて、早々に投げ出してしまった。
ぼくも年を取っている。
こんな難しい本を読んでウンウン悩んでる時間はもうない、と思ったのだ。
『自分を知るための哲学入門』には、「哲学を学ぶには難しい本を苦しみながらたくさん読む必要がある。しかし、そんな時間はない」と言うことが書かれている。
あと、読書会をやるなら男女混ぜた方がいい、などと実践的なアドバイスも書いていて、『自分を知るための哲学入門』は非常に面白い。
自分の考えでは哲学とは、自然科学から物質や現象を取り除いたあとに得られる、「考え方のパターン」のようなものだと思う。
初歩の力学がすべての物体から大きさと形を捨象して「質量を持った点」として捉えるように、すべての現象や思考から対象を捨象したときに得られる、考え方そのもののようなもので、化学や物理よりももっと基本的な学問なはずだ。
それにしても、これから哲学を学ぶ人が、ビッグネームの哲学者が書いた「原典」をまず読まなければならないというのは要領が悪いと思う。
たとえば物理を学ぶ人が、昔の英語にウンウン悩みながらニュートンの「プリンキピア」を解読しなければならないということはない。
もっと洗練された現代の教科書をまず学ぶのである。
(まあ、日本の高校生のように微積を使わないで力学をわざわざ難解にして学ぶという変な例もあるが)
サンデルの本に「アリストテレスの自然科学は現代の科学者に顧みられることはもはやないが、アリストテレスの哲学は今の哲学者にとっても大きな問題である」と書いてあった。
その真意は詳しく研究していないが、アリストテレスが出した問題もまだ解けていない(合意を見ていない)のであれば、それから膨大に書かれた哲学書についてはさらに解釈が分かれているのであろう。
気が遠くなる。
まあ現在も生きておられる竹田氏の、初学者のための入門書である『現象学入門』でつまづいているのだから、「哲学は昔の人の難しい本をたくさん読まなければならないのが難点だ」とぼくが思うのは明らかにおかしい。
ただ、ここまで贅言を弄して何が言いたかったかと言うと、哲学には鉱脈がある--知りたいことを知るための道筋が含まれていると思うのだが、どの登山口が要領がいいのか分からないのである。
自分でいちからオリジナルの哲学を考えればいいんじゃないか、という気もする。
誰でもそうだと思うが、ぼくは小さいころからいろいろ頭の中で考えに耽っていた。
「あるある」でいうと、この世界で自我を持った存在は自分だけで、世界は全部自分をだますための装置、書き割りなのではないかという考えがある。
唯我論と言うそうだが、これ、絶対幼少期に一回は思うと思う。
あと、「信号の赤は、自分にはあの色に見えているけど、他の人が同じ色を指して赤い赤いと言っている、その色は自分の心に結ぶ像と同じなんだろうかね」と言うものである。
これもちゃんと名前が付いていると思うけど、浅学にして知らない。
こういう、物質や現象の向こうにある思考、メタ思考のようなことに強く魅了されるのである。
時間がつぶれるような気がするけど、ちゃんと積み重ねればもっと要領よくいろいろなことを把握できるんじゃないか。
たとえば「物質と現象の違い」が気になる。
昔のヨーロッパの考えで「世界は空気、火、水、土の四大元素で出来ている」というものがあるが、この中で「火」は現象であって、他のものとは根本的に異なる。
他の3つは重さや大きさを持っていて、容器に貯めることが出来る。
しかし火は物質が燃えるという現象であって、物質ではない。
我々は便宜上、オリンピックの聖火のような場合は、火を物質のように扱っている。
「台風」も現象(大規模な低気圧)であるが、アメリカでは人名を付けたりしている。
(昔は女性の名前を付けていたが、時代と共に男性の名前も付けることになった。そういえばアジアでも「ネズミ」とか「ゾウ」とか言うことにしたって言うけど全然流行ってないね。)
実際には、原発や原爆の中では物質がなくなってエネルギーに変わっている。
つまり、極微の世界では物質は現象と同じものであると言える。
人間や動物のような生物はどうだろうか。
肉体という物質が、生命と言う現象を得て生物が成り立っている。
つまり生物とは物質と現象の交わるところに得られるもの、であると言える。
こういうのは他に太陽とか、機械などがある。
死んだ人は人だろうか。
これは定義の問題、つまり、言葉遊びの領域だろう。
情報は物質だろうか、現象だろうか。
我々は「プログラムが入っている」「入っていない」「壊れている」などと言う。
しかし、実際にはビット(磁石や電気信号の励起状態)をコピーしているのであって、完全な現象である。
しかし、こういう問題をいろいろ考えていると思うのだが、言葉について考えることは世界について考えることだ、と思う。
普段何気なく使っている言葉を注目していると、多くのメタ思考が得られる。
こういうことを考えるだけでなく、文章に書きためて行こうと思う。
文章に書きためれば同じことを何度も考えなくてすむし、同じ文章の中で矛盾や飛躍があれば運が良ければ気づくので、真理に近づいていける気がする。
当然、とっくに先達によって考えられていたことばかりだろう。
ぼくが知らないだけである。
その場合は読者諸兄にご教示いただければ幸いである。



