2018年11月10日、栃木県宇都宮市の施設で開催された、創造演劇集団SAIのワークショップに行ってきた。
演劇のワークショップというのは、俳優さんが集まって講師の指導の元にいろいろ体験する、修練を積むと行ったもので、ぼくのように俳優ではなく、今後出演するかどうか分からない者が参加するのもなのか分からない。
でも、他の劇団のワークショップに、ファンの人が行って楽しかったという話もあったし、今回は体験が主ということで、思い切って参加してみた。
結果、ものすごく楽しかった。

自分でも表現の場に近づいてみようと思ったのには、単に演劇が好きで、より深く理解したいと思った以外にも、理由がある。
ぼくは2011年に、友達に誘われて小劇場の芝居を見るようになってから、子供の頃からずっと夢見ていて、果たせなかった、小説の創作が急にできるようになった。
小説というのは、言葉が登場人物にくっついているので、そこが論文やエッセイとは違う。

人物を登場させるのは、ものすごく難しい。
主人公(=作家の分身)が、考えていることを説明したり、論説したりするのは、まだ、比較的書きやすい。
思っていることをそのまま書けばいいわけで、論文やエッセイとあまり変わらないのだ。
しかし、別の人物を登場させて、主人公の言葉を聞かせたり、影響を受けるウケの演技をさせたり、その部屋の隅で窓を拭いている演技をさせたりするのはものすごく難しい。

かねてからそう思っていたのだが、演劇を見るようになって、空間を立体的に捉えられるようになって、小説が論文を人物に喋らせることを超えた、空間を持ったものとして捉えられるようになった。
自分の小説がうまくいっているかどうかは知らないよ。
でもその、複数の登場人物が醸成する空間感を捉えられるようになって、虚構の世界にグンと入れるようになった自分が、とても快く、誇らしくなってきた。
それで、もっと演劇の世界に近付こう、中に入り込もうと思って、今回もワークショップに参加してみたのである。

ぼくは神奈川県川崎市中原区に住んでいる。
栃木県宇都宮市はまあまあ遠かったが、武蔵小杉から湘南新宿ラインが出ているので、音楽を聴きながらうたた寝をしていると、そのうち着いた。

バスが苦手なので、駅から会場まで小一時間歩くことにしたけど、これがしょうしょう失敗で、もう冬なのでとっぷりと日が暮れていて超心細くなった。
宇都宮は完全に車社会で、でっかい駐車場が並んでいる中をトボトボ歩いた。

会場につくと、人数は10人弱、圧倒的に栃木の人が多くて(ぼくと主催の人いがい全員?)若い人も多かった。
その日18歳になった人が最年少だったようだ。
オメデトー!

最初に、お互いの呼び名を覚えて、お互いに指差し確認をしながら行うゲームと、2班に別れて輪になり、それぞれの名前にだんだん増えてくる属性を付加しながら、決められたポーズを付けて呼び合うゲームを行った。
欧米の劇団などでは、このゲームをそれぞれ8時間ぶっ通しでやったりするそうだ。

ふだん使っていない筋肉を動かすのでぐっしょり汗をかいて大変だったが、一気に初対面の緊張がほぐれ、お互いに相手の名前を「××!」と呼び捨てで呼ぶのがだんだん楽しくなってくる。

初対面の恥ずかしさ、シャイネスというのが、ふだんからほうぼうで大変な障害になるのを感じていた。
会議をしても、セミナーの講師をしても、大掛かりな集まりになればなるほど、口をつぐんでしまう人、それによって周囲に発生する重苦しい雰囲気というのが、とんでもなく重要な何かを急速に失っているような気がするのだ。
それを今回、ゲームの形で、強制的に流し落とすことで、いっきに声が出るようになって、人の声も素直に聞くことができるようになった。

相手に声をかけるとき、特定のポーズをする、こんな簡単なことがどんどんツラくなってくる。
トシを取るのはイヤだなー。
そのうち、辛いながらも全力を振り絞ってやろうとする人と、なんとか手を抜いて、どうにかそのポーズに解釈できるような簡略化したポーズにしようとする人(俺だ、オレ)に分かれてきて、個性というか人生観が出るなーと思った。

主催者の、SAI代表の倉垣吉宏さんの話で、まず、俳優である「私」(わたしなるもの)から伸びている3つの要素とは何かという話があった。
背景とか、セリフとかいうものではないらしい。
心とか、感情とかいうものでもないらしい。
ぼくは、言葉と動きとかそういうものですか、と聞くと、惜しいけど違う、と言われた。
ここでは、声、身体、演技ということだ。
なるほど。
パソコンで言うとモニターとスピーカーとキーボードのような、インターフェイスのようなものかと理解した。

テキストが配られた。
こってりした内容で、無責任に要約できないが、個性的な役者と、フラットな役者というようなことが書いてあった。
自分流に理解すると、登場人物は、すごく変わっていて、ジャック・ニコルソンみたいな個性的な人で、その個性に引っ張られて作品の世界に入っていく場合もあれば、個性のないフラットな役者が、型通りの演出をすることで、物語の世界が素直に理解できる場合もある、というようなことだろうか。

その後、3人のグループに分かれて、議論をしたり、仲裁をしたりするエチュードと、2人組になって、相手が好きなものを「1:全面肯定する」、「2:中間的に流して聞く」、「3:露骨に無視する」というエチュードがあった。

3人組のときは、仲裁役だったのだが、2人の議論が白熱していて、自分がうまく活躍できず、後悔があったが、2人の議論があらぬ方向に展開していて面白かった。

2人組のとき、相手の言うことを全力で肯定するのが、本気で相手のことを肯定しているのか、それとも、相手を持ち上げるために、日常生活でもよく会う営業トークのイエスマンのような人なのか、その違いが分かりにくいし、出しにくいと思った。
あと、中間的に流して聞くのが、全面肯定か、露骨に無視するか、どっちかに寄ってしまう。ペアになった若い女性は前者に、ぼくは後者に引っ張られてしまうなあと思った。
あと、相手を否定する演技というのが、ものすごく難しくて、自分の中にある黒い部分を召喚してしまうようなところがあって、鬱になるなあ、などとも思った。
いろいろ文句を言っているようだが、それだけ難しさがあって面白い。
後半も、たいして体力を使わないのに全身筋肉痛になって、超楽しかった。

同じような機会があったら、また参加したいし、これからの自分のリアルな日常にも、取り入れたいヒントがたくさんあった。
陳腐な言い方になってしまうけど、人間はみんな、常に、ありうべき自分を演技しているわけで、その演技の部分を抽出して訓練することで、本来の自分を出しやすくすることもあるのだろうなあと思った。

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