先週は文章読本や日本語学の本について丸谷氏の業績をたどったが、今日は小説の作品をいくつか紹介したい。








『エホバの顔を避けて』は、聖書の「ヨナ記」を小説にしたものだ。
絶版だが、Amazonで比較的簡単に古本が手に入る。
今は少し高いようだ。
しかし、ゆくゆくは電子書籍が簡単に手に入るだろう。

このヨナ記は、なんとも意味の分からない不思議な話だが、丸谷氏の小説はそれを詳細に想像で補っている。
しかし、不条理極まりない話には変わりがない。
神と運命に翻弄される人間の物語である。

『笹まくら』は、以前「カッコいい小説」という題名のブログにも登場させたが、グレアム・グリーン調のスリリングな小説だ。
ただし読み味は苦い。
実際に人間が、何かから逃げてスリリングな人生を送っていたら、その人生は苦くなるのが当然だ。

ぼくはこの本のことを今年、2012年に思い出すことが何回もあった。
それは「人間にとって国家とは何か」という問い掛けに関してである。
登場人物の出す答えは、恐ろしく苦い。
そして登場人物の不安な人生が、いつぼくたちに降りかかって、選択を迫られる日が来るのか、何となく選択せずに済んでいる日々が、どれだけはかないものかを否応なく考えさせる。

すらすらと読みやすく、筒井康隆的な文体の冒険も楽しい。
最初にまず一冊、ということであれば、この小説を勧める。
日本語で書かれた小説の中で一番好きかもしれない。

『年の残り』は短編集であるが、「川のない街で」、「思想と無思想の間」の2編が特に面白い。
どちらも現代的な、答えの出ない問題を扱った小説だが、小説はそれを「考えるヒント」になっている。単に問題を問題のままに放置しない手がかりになっているのだ。

後年の長編『女ざかり』を思わせる「男ざかり」という小説も出てくる。
ちょっとイヤな話なのだが、このイヤさ加減をどう評価するかが丸谷の小説に入っていけるかどうかの分かれ目な気がする。
ぼくはこういう話がすごくイヤな方なのだが、それでも小説の魅力に圧倒されて愛読している。

その『女ざかり』は映画化もされた最も有名な小説だ。
この小説は新聞社の論舌委員が出てくるが、新聞の社説はどう書いたらいいか、どう書いたらまずいかということが克明に書かれている。
これだけ読んでもモトが取れる、オトクな小説である。

ところでこの小説の舞台は「六大紙の一つ」である新日報社という架空の新聞社が舞台になっているが、丸谷は自らの評論の中で「小説家は『毎朝新聞』のような日寄った架空の新聞の名前を出さず、堂々と現存する新聞の名前を出すべき」という議論をしていたので、おかしかった。
この小説の新聞社はさすがに架空にせざるを得なかっただろう。

『輝く日の宮』は、源氏物語の失われた一節の謎について、女流国文学者がそれを解き明かす物語である。
丸谷の小説は、楽しいウンチク話と、登場人物の深刻な人生の問題が交互に出てくるという特徴がある。
小説によってはそれがうまくブレンドされていない印象を受けることもある。
丸谷もそれは、自らの小説の問題として意識していたのではないか。

本書は、国文学者の才媛を主人公に持ってきて、文学史上の大問題に挑むという形式を正面から取ることで、その問題を解決しているようだ。
楽しいウンチク話を読むほどに、主人公の運命が気になってしょうがなくなるのである。
文体の冒険もふんだんに取り入れられている。
最初と最後の節がたまらない。

随所に年表が挿入されるが、年表には登場人物の往来と同時に「オウム真理教事件」のような実在の事件が堂々と入っていて迫力がある。
これは、上に述べた自らの「小説家は社会で起こった出来事をそのまま書くべき」という理論を実践していて感心した。

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