連載の第16回。


前回までは、パクりはダメ、ガセもダメ、分かりにくい文章はダメということで、当たり前のことを考えた。
書いてみて分かったのは、ではどうしてパクりは発生してしまうのか、ガセを、意味不明な文章を我々は書いてしまうのかということを考える価値がある、ということだ。
我々はパクリ・ガセ・意味不明な文章を、ただ書かないようにするだけではなく、より積極的に、つい書いてしまう自分を厳しくチェックする必要がある。

さて、今回は前回までの当たり前なやってはいけないシリーズではなく、ぼく個人の持論としてのやってはダメだということを考えたい。
それは「御託宣はダメだ」ということだ。
御託宣(oracle)とは神の啓示のことだ。
神殿のようなところで瞑想していると、急に神様が降りてきていいことを教えてくれる。
それを早く民衆に伝えなくてはならない。
「こういうことを神がおっしゃった」
もちろんそういう本ならば、それはそう書くしかないだろう。

しかし問題は、そうではない本、普通の実用書でも、そういう風に書いている本が多いことである。

人生で何回か「引っ掛かる言葉」自分の心に刻み込まれてしまって、折りあることに再生される言葉がある。
ぼくにとってのその1つに、アシモフの科学エッセイ「我が惑星、そは汝のもの」の中に出てくる言葉がある。
「『1+1は2である可能性があります』と言うよりも、『1+1は3である。夢疑うことなかれ』と言う方が信じてもらいやすい」
(本が手元にないので、記憶に頼って書いているのでご容赦)

この言葉がいつも心に残っている。
そして「『1+1は3である。夢疑うことなかれ』とさえ言い切ってしまえば、下調べもせず、検証の労も取らずに、人を感心させることは出来るのかもしれないが、それはやめよう」と思っているのである。

アシモフの発言は疑似科学、トンデモを批判する文脈で出てくるが、ぼくはもっと一般的な言説にも同じことが当てはまると思う。

よく親や先生が言ういい加減な説教に、「若いうちの苦労は身を結ぶ」「今にあんたは年を取って、なぜ昔もっと厳しくしてくれなかったのかと後悔する」というのがある。
みな予言であり、言いきりである。
御託宣と変わらないのだ。
ぼくは若い頃、こういう説教をされると「なぜあんたは俺の未来のことが分かるのか・・・」と不思議に思っていた。
いま年を取って分かるのは、あの人たちは適当に言っていただけだということだ。

自己啓発やマーケティングなどの本来科学的であり、実業的であるべき文章であっても、このような言い切りが多い。
「頭がいい人はみなxxをしている!」というやつだ。
ダイエット本にも多い。
みな統計を取ったわけでもなく、エビデンスがあるわけでもなく、論理的な積み重ねもなく、「こうすればこうなります」と言いきっているのだ。
その文末には「信じなさい」という言葉が暗に含まれている。
そして本によって正反対の主張が生じる。
最近特にこういう本が多くて、本屋の店先に行くとクラクラする。

しかしながら、どんな本も一片の飛躍なく、論理的に1から10まで説き起こさなければならないというものではない。
パソコンの使い方を説き起こすのに、いちいち論理回路から説き起こしていたのでは日が暮れてしまう。
ある程度先人の研究を無批判に受け入れて、つまり「信じて」もらって話を進めないと社会の分業が進まない。
逆に言うとどんな本であっても、無批判に受け入れてもらわなくてはならない局面は必ず存在する。

こうなると前回議論した「著者は読者が何を知らないか分からない」というのと一緒で、どこから説明して、どこまでは無批判に信じてもらうかの塩梅の問題になる。
しかしぼくとしては「何でそんなことあんた知ってるの・・・」と言う風な、飛躍した、不思議な物言いはしたくないと思っている。
そういう文章を書いていると不安になるのである。

本当の問題は「飛躍した文章を書かないようにするにはどうするか」ということかもしれない。
それはまたいずれ別に書きたい。


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