連載の第17回。



わかりやすい文章を書きたいと、いつも切実に思っている。
どんなに複雑な内容でも、簡単に書ける人が、もしいたなら、それはオリンピック選手ほどの神技の持ち主であって、とても常人には真似できない。
ところが、これが如何に至難の業であるかは、器械体操などと違って理解されにくい。
わかりやすい文章は、読めばスラスラ分かるので、なんだこんな文章だったら俺にも書けると思う。
違う。
一見やさしい文章をスラスラと書いているその裏に、血のにじむ努力の積み重ねがあるのだ。
誰が食べてもおいしいカレーを作るのが大変なのと同じだ。

とはいえ、高橋尚子さんなら2時間で走ってしまう40キロの道のりを、ヒイコラ言って歩けば常人にも目的地にたどりつけるように、最初から才能がなくても、いろいろ努力すればなんとか分かりやすい文章が書ける方法があるのではないだろうか。
今回は、それをなんとか考えたい。

なぜ分かりにくい文章になるのか。
理由は、パッと考えると4つ考えられる。
(1)内容が高度すぎて、読者がついていけない
(2)著者の頭がおかしくて、意味のない文章を書いている
(3)複数の意味に取れるあいまいな文章を書いている
(4)説明が足りない
1個1個検証しよう。

(1)内容が高度すぎて、読者がついていけない

タテマエとしては、どんな複雑で高度なトピックであろうが、どんな普段本を読まないボーッとした読者が読んでも分かるような本を書くべきだ。
しかし、なかなかそうはいかない。
たとえば相対性理論を小学生に分からせるのは無理だ。
(ぼくは高校生の時に岩波から出ている矢野健太郎さんの本で学んだ。リンクを張りたいのだが、Amazonで見つからない)

と、書いて思ったが、相対性理論を小学生に分からせる本は、書ける。
要は小学校の算数から、中学生の数学、高校生のニュートン力学と順々に説いていって、その後に本題に入ればいいのである。
ただ、5000ページとかになるので、出版企画としては通らないだろう。
となると、やはり高校生ぐらいを対象に書き始めることになる。

ということで「内容が高度で難しい本」というのは不正確である。
本を無限に厚くしてよければ、そして、読者に無限の付き合いの良さが期待できるなら、いくらでも簡単なことから噛んで含むように説き起こして、いくらでも高度な内容の本が理論上は書ける。
ただ、一冊の本の厚さには限界があるので、ある程度読者の前提知識をあてにする必要がある。
たとえば、高校生なら分かるだろう、という前提で本を書き始めるのだ。
ここの塩加減が一番難しい。

(2)著者の頭がおかしくて、意味のない文章を書いている

「丸い三角形が廊下で泣いている」みたいな文である。
自然言語はプログラミング言語と違って、どんなデタラメなことを書いてもエラーが出ないので、時としてこういうことが起きる。
例を出すのは控えるが、そういう文章ばっかり入った本が堂々と商業出版されているのである。

意味がないというのは不正確で、著者としては意味があるのだが、読者に伝わらない、ということであろう。
あるいは、単に難しいっぽい言葉を並べて見栄で書いている場合も結果としてこういう文章になる。
例を出すのは控えるが、このパターンの無意味本も堂々と商業出版されている。
素人のネットの文章だと、もっと簡単に例が見つかる。
休みの日などついつい変な文章を渉猟してしまうのだが、暗い気持ちになるのでやめた方がよい。

(3)複数の意味に取れるあいまいな文章を書いている

このへんからだんだん具体的になってくる。
◇分かりやすい日本語文章の書き方というWebページに乗っている例文だ。

 「黒い髪のきれいな女の子」

これは有名な例だ。
少しも日本語としておかしなことはない。
むしろスラスラ読めてしまう。
しかし、意味が分からない。

以下のように複数に解釈できてしまうのだ。
 ・髪の毛が黒く、容色が整った、少女
 ・肌が黒いが、髪の毛はきれいな、少女
 ・黒い髪の毛が、やたらきれいな少女
 ・髪の毛が黒く、容色が整った女性が、産んだ子供
まだまだ解釈できるので考えて見てください。

これを避けるにはどうすればいいか。

上記の箇条書きのように、説明を増やして冗長性を高めれば「まぎれ」はなくなってくる。

あるいは
 ・黒髪の美少女
 ・色黒だが髪のきれいな少女
のように、コンパクトな成語を使う手もあるだろう。

冗長性をあげれば可読性が高まるというのは、(4)にも関連する。

(4)説明が足りない

「有楽町ってどこですか」という質問に対しては以下のような書き方が出来ると思う。

 ・東京から山手線の内回りに乗って一駅です
 ・銀座から西に向かって高速をくぐったところだよ
 ・35.675984,139.763296

どれも分かりやすいが、分かる人にしかわからない。

(1)と関連するが、ある新しいことを説明するためには、結局、読者の前提知識を踏まえて説明を接ぎ木していくしかないのだ。
読者が何をあらかじめ知っているか、こちらには知りようがないのだが、これはアタリをつけるしかない。
と同時に、複数の説明を併用することになると思う。
どれかが当たる。

冗長性は必要で、ちょっと複雑なトピックであれば、同じことを2回違う角度で説明するとグッと分かりやすい。
多次元的に捉えられるのだ。
たとえば複雑な事件の顛末であれば、まず登場人物を系図順に書いて事件との関わりを書いてしまう。
続いて時系列順に起こったことを書く。
説明が重複するのだが、あえて重複した方が読むほうはありがたい。
どうせ1回読んだだけでは、書いたこと全部は理解出来ないものである。
そこをダメ押してもう1回書いてくれると、本当に分かる。
この辺は、書くほうの技術ではなくて労力(サービス、親切さ)の問題だ。
あまり親切にされると本は分厚くなるし読者にもウザいとか言われるのでその辺の湯加減が難しいが、「自分が分かっていること」を他人はなかなか分かってくれないものなので、せいぜい分かりやすく書いた方がいいと思う。

技術書であれば最初に基本的なトピックを列記して後でそれを複合させると言った論の立て方をするだろう。
そのとき、前に出てきたトピックがいかに後ろで役立ったかということがわかると読者としてはありがたい。



と、いろいろ書いたのだが、「どういう文章が分かりにくいか」「どう書けば分かりやすくなるか」ということを考えるだけでは、実はあまり役に立たない。
というのは、分かりにくい文章を書いている本人は、その文章の分かりにくさについて自覚がないのである。
何回も書いているが、説明というのは基本的に、あることを知っている人がそれを知らない人に言葉で伝えることだ。
ところが、知っている人は、知らない人が、「どこまで知らないか」を知らないので、どこまで前提知識を書けばいいか、どこまで冗長性を上げればいいか、分からなくなっているのだ。

これは
 ・一度書いて時間をおいて読み直す(推敲)
 ・人に見てもらう
しかないと思う。

推敲はすばらしい。
前に書いたが、ぼくは夜中にいろいろ変なことをいっぱい書いて、翌朝それをどんどん削っていく書き方が好きだ。
人間には自己批評能力があるので、自分のであっても昔の文章を読み返すと、いくらでもおかしい文章や余分な文章が見つかる。

人に見てもらうというのは、商業出版の企画が通れば編集者さんに読んでもらうことになる。
編集者さんはその道のプロであって、いろいろな著者の本を読み、いろいろな読者の声を聞いているので、どの文章がどう分かりにくいのか的確に指導してくださる。
逆に編集者さんのお目どおりが適えば商業出版できるレベル、とお墨付きが得られるはずだ。

友達に読んでもらうのはなかなか難しい。
いくら肝胆相照らす仲の親友であっても、的確なアドバイスが得られるかどうか分からない。
よく起こる間抜けな失敗は、読んでくれた友達に「ここはこういうこと?」と聞かれて「違うよ! こういう意味で書いたんだよ!」などとムッとして反論してしまうことだ。
何の意味もない。
あと、何の興味もない文章を読む、そして気の利いた感想を言うというのはなかなか骨が折れる作業であって、とても無料ではやっておれないと思う。
ニコニコして読んでくれても、実はメーワクしているかもしれないので注意が必要だ。

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