連載の第15回。
本当は先週に続いて、「パクリもダメだけどガセもダメだ」ということを書こうと思う。

そう思って、さっきからいろいろ考えているのだが、なかなかうまく書けない。
いけないことは分かりきっているし、いけないと分かっていてもやる人はやるし、無意識にやってしまう人には議論をしかけても無駄だ。
しかしながら、とりあえず、本にとってガセとは何か、なぜガセを書いた本が存在してしまうのかについて書いてみよう。

まず、ガセがダメなのは報道、科学、技術と言ったノンフィクションの分野であろう。

反対にハリー・ポッターのようなフィクションの分野はいくらウソを書いても良い。
逆にウソが読みたくて読者はこのような本を買い求めるのだ。
ただし、設定が前半と後半で異なっていたり、文章が無茶苦茶だったり、無理な設定を作者も分かっていながらごまかしているのは良くない。
しかしながら、これは言うところのノンフィクションの分野のガセネタとは趣が異なる。

思想、哲学の分野はこの中間である。
著者は思ったことをあらわすのであって、本当もウソもない。
しかしながら、前提となる歴史的事実にウソがあったり、自分にウソをついて思ってもいないことを書くのは当然良くない。

フィクションと、思想という、2つの分野は難しいからこれ以上述べない。
本節では報道、科学、技術の分野のノンフィクションについてもっぱら考える。

そもそもこういう本は「~は~だ」という事実、面白情報、役立ち情報がまとめてある。
読者は自分で調べなくても、知らなかったこと、なかなか分からないことに沢山ふれることが出来る。
便利だし、楽しい。
そう思って読む。
だから、こういう本は、事実であることがまず問われる。
「~のお得情報100連発」という本を買って読んで見たら、80個ぐらいウソが書いてあったら誰だって怒るだろう。

ではなぜそういう本が存在してしまうかというと、以下の2つが考えられる。
(1)金儲けのためにウソを書く場合
(2)ウソを真実だと信じている場合

(1)は違法な金儲けをしている場合であって、これは前回の野菜泥棒と一緒で、悪いと分かってやっていることだし、犯罪心理学の領域なので、あまりここで議論しても始まらない。
とりあえずやめてくださいとだけ言っておこう。

問題は(2)であって、著者が本当と信じてウソを書くぶんには誰も止められない。
実際このパターンの変な本が書店にはあふれている。
いわゆるトンデモ本だ。

『トンデモ本の世界』という本は毀誉褒貶が激しいが、長い文章を書いて世に問おうという人には是非おすすめする。
なぜ変な本が成立してしまうのか、世間に出て名声を博している本のどういうところが変かを、論理的に、面白く書いている。
逆に、本を読んですぐに信じず批評的に検討することが出来れば文章を書くのに必要な知のトレーニングになる。
ある本のどこがおかしいかを検証して文章にまとめるところまでいけばなおさらである。

ところで、一冊まるまる変なことを書き続けて、と学会に取り上げてもらえるような本を出すのはなかなか至難の業である。
それこそハリー・ポッターのような壮大なファンタジーを書くのと一緒で、一冊の本の中で矛盾が生じたり、書き続けるのが難しくなるような無理が生じるのだ。
逆にある程度の長さの本を書いてみると、自分の正しさに確証が持てる。
書くことによって教えられるのだ。

よく「教えることによって教えられる(教師は学ぶ)」ということが言われる。
それはその通りであろうとも思うが、口で教えるのであれば結構ウソ八百であっても場が持つのではないか。
まず本ほどのスピードで(濃度で)情報を伝えられないし、情報がシーケンシャルに、時間と共に流れていくので、それほど矛盾が目立たない。
じっさい教壇やテレビでおかしいことを言っている人は多い。

文章はなかなかそうはいかない。
変な情報を集めて書いた本は長く書けば書くほどそのうち破綻する。
自然界のことわりとの矛盾に耐え切れなくなるのである。

逆に言うと、あやふやだけど面白い思想を持っている人は、それをどんどん文章にしてみると良い。
いい加減なことを思い込んでいる場合は、意外にすぐ文章が破綻するので反省できる。
これは面白いのでおすすめだ。

さて、それほど破綻しなかったり、単純に「日本の信号は赤が進め、青が止まれである」「カラスは白い」と言うような、論理を伴わない情報の場合は、間違いがそのまま原稿に残り、不幸にして出版されてしまう。
これは著者の能力、努力の問題である。

実際にぼくの本、特に「文字コード【超】研究」にも出た当初は間違いが多く、多くの碩学の方、諸先輩方からご指導、ご鞭撻を得た。
この本の正誤表おたよりコーナーは、ものすごく読みごたえがあるので是非読んでいただきたい。
ていうかスイマセン。

こういう間違いがどうしようもなく生じることについて、著者はどのように対処すればいいのだろうか。

まずなるべく間違いがないようにがんばる。
これは当然だ。
がんばるー。

次に、間違いが分かればすぐに訂正できるインフラを整える。
今はオンラインでサポートページが容易できるからラクである。

先日Amazonで買ったKindle版の「Steve Jobs」の訂正版が配布されて驚いた。



そのうち電子書籍の時代が本格化すれば、本はソフトウェアのように勝手にどんどん訂正される時代になるだろう。

次に明確で、誤解の起きない文章を書く。
これはウソ/ホント以前の問題であって、別問題であるからまた項を起こす。

三つ目に引用の場合は出典を明らかにする。
元が間違っていたり、誤解に基づく引用であった場合はこれで検証可能になる。

最後に、飛躍した情報を書かない。
トンデモ本のような「1+1は3である。夢疑うことなかれ」式の文章の羅列であれば、この種の間違いは避けられないだろう。
ぼくはこういう書き方を取らない。
なるべく単純な事実から出発し、一段一段飛躍しない論理を経て進んでいくような本を書きたいと思っている。
というのは、散発的な事実の羅列ではなく、事実に到達するための論理や、関連する情報の集め方にこそ興味があるからだ。
自分の本を読めば、自分でさらに上の研究が出来るし、なんならさっき読んだぼくの本が本当に正しいかカンタンに検証できるような本を書きたいと思っている。

もっとも、これは本の書き方の方針の一つであって、万能ではない。
辞書のように大量の情報を羅列することに意味がある本であれば、そういうやり方は取れないだろう。
その場合は「書くことで学ぶ」「読むことで間違いを見抜く目が身につく」などというダラダラしたことは言っておれず、作者は全身全霊を掛けて間違いを書かないことに最善を尽くすしかなく、読者はそれを頭から信じるしかない。
一番極端な例が「対数表の本」である。



もっとも、昔の数学の本の巻末の対数表には、著者が「自分で計算して書いたが、間違いがあるかもしれない」などと書いてあったそうである。

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