みなとみらいでランチを食べて、ちょっと食べ過ぎたので、腹ごなしに歩いた。
食後には歩くようにしている。

ボードウォークの真ん中に空き缶が落ちていた。
ほんの1メートル歩けばゴミ箱があるのになんでこんなボードウォークの真ん中で空き缶を捨てるのだろうか。
あるいはゴミ箱に投げ入れようとして失敗したのかもしれない。
いずれにしてもボードウォークの真ん中に空き缶があるのは気持ち悪い。

ぼくはここ数年、こういうのを見つけたら拾って捨てるようにしている。
日本の都市部であれば、空き缶のそばにはたいてい自動販売機があり、その横にはゴミ箱がある。
そこにポコッと入れる。
スッキリする。

こういうことを書いていると、いい子ぶった文章を書いているように思われる。
ぼくは、それほど公徳心が高いほうではないし、きれい好きでもない。
もし町内美化運動かなんかを休日集まってすることに決まったとしたら、全力で逃げる口実を考えるほうだ。
部屋も散らかっている。

そうではなくて、たまたま行き当たった空き缶があれば、前は行き過ぎていたが、ちょっと拾ってみると、面白いようにゴミ箱が見つかる。
そしてゴミ箱に空き缶をポコッと捨てる。
異常にスッキリする。
想像していたよりも、はるかにスッキリするのである。

ワインバーグの本にも、路上で空き缶を拾うことの効用が語られていた。
ワインバーグのどの本だったか忘れてしまったが・・・。(いつもそんなことを書いているが・・・。)







ワインバーグの本には確か、空き缶を拾いながら歩くとおなかがへっこむ、と書かれていた。
(そんなことばっかり覚えている・・・。)
それは聞き捨てならない。
空き缶拾いダイエットだ。
確かに歩き回ればカロリーを使うし、屈伸運動にもなる。
それに気持ちが晴れるので、ダイエットには良さそうである。

なんでも鑑定団で有名な中島誠之助氏も散歩しながらゴミを拾うそうだ。



中島氏は最初「なぜ道端にこんなにゴミが落ちているのか」と腹が立ったそうだが、自分で拾い始めてそれを「行(ぎょう)」として捉えることにしたそうだ。
この気持ちも分かる。
年を取ると道端で無作法な振る舞いをしている若い人がたまらなく忌々しく感じる。
自分でも思うが、なんというか、必要以上に腹が立つのである。
が、自分で空き缶ぐらい拾うと決めてしまえば、アラ不思議、気にならなくなる。

こういうことだと思う。
自分が歩く道に空き缶なんか捨てられると、何かバカにされたような気がするのだ。
しかしその空き缶をあえて拾って捨ててみると、とりあえず自分はバカではないと思えるのだ。
実にみみっちい、せせこましい気持ちである。
でも、これが効く。

ただしぼくは、あくまで思いついたときの暇つぶし、自己満足であって、義務として捉えることはしていない。
100%自分のストレスを減らすための行為である。
別にぼく一人がたまに思い立って空き缶の1つや2つ拾ったところで、全然地球環境に影響はない。
しかしながら、たまに思い立って空き缶を拾う、そんな酔狂な時間があってもいい。
少なくとも害にはならないのである。
ちなみに電車の中をカラカラ転がっている空き缶を捨ててやったときの気持ちよさは異常である。
是非お試しください。

一時は本気でゴミ拾い全般に凝っていて、煙草の吸殻を拾ったらもっと捗ると思ったこともある。
煙草の吸殻というものは、その気になって目を凝らしてみると、実に夥しく落ちている。
あっと言う間に100や200は拾える。

しかしこれはやめたほうがいい。
火がついていることが多いのである。
昔コンビニの袋に拾って入れていたのだが、一見消えたように見えた吸殻が急に袋の中で炎上して驚いたことがある。
命がけでゴミ拾いをしても全然得にならない。
実際、吸殻を拾うのが趣味のおばあさんが、家のゴミ箱に捨てて出火し、大火災に発展した事故があった。
これは本当にやめた方がいい。

愛煙家の人は、道端に煙草の吸殻を捨てるのはやめて欲しい。
でももともと捨てるような人は、こんなところでぼくなんかに説教されてもやめることはないだろう。
これはメーカーが煙草の巻き材、フィルターを生物分解性のある(英語でbiogradableと言うそうだ)ものに変えるべきであろう。

ゴミ拾いの話に戻ると、PIKARAというソーシャルメディアがあって、拾ったゴミを写真に撮って共有するそうだ。
これも面白そうだ。

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